楠木坂コーヒーハウス>書庫>【書評・感想】2003年10月

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2003年10月


『オリエンタリズム』 エドワード・サイード 平凡社
 これを読んでる最中に訃報を耳にしてしまったが、「戦う知識人」サイードによるオリエンタリズム批判の書。
 ここで言うオリエンタリズムとは、西洋が抱いている「東洋」(この本で扱うのは主に中東だが)のイメージ、――しかもそれはかなり敵対的で偏っている――のことである。それがいかにして歴史的に形成されてきたのか、古代から現代に至るまで、特に18世紀末から19世紀初頭に重点を置きつつ批判的に検討する。
 最初はキリスト教の敵として宗教的に描かれたオリエントが、次には道徳的に退廃した民族として描かれるとともに植民地主義の正当化の理由とされる。さらに両対戦間のころにはウィルソン主義(民族自決)の精神が高揚するとともに、明らかな政治的・民族的な「敵」として描かれ、今日でもアラブといえばテロリスト、石油利権などのイメージで描かれる。9・11以降の世界(特にキリスト教/イスラム教の関係)を見る上でも、西洋人が持つこのオリエントへの視野を考慮に入れることは非常に有効かつ重要だと思う。
 サイードは、オリエント自身の声がまったく聞こえてこないこうした表象を問題とし、あまりにも一方的で、誤った表象の暴力性を培った「オリエンタリズム」という西洋の学問体系に対して痛烈な批判を繰り返す。
 だが、この本のすごいのはこの理論的枠組みの応用性にあると思う。「西洋が東洋を見るまなざし」だけでなく、例えば、僕がいつも言うような「日本人がイギリスを見るまなざし」にもこの枠組みは適用可能である。(どうしてベッカムが日本ではベッカム「様」になってしまうのだろうか?)
 この前の朝日新聞の訃報記事の中ではこの本を「東洋に対する偏見を問題にした」と書いてあったが、そういう「偏見の形成」以上に、フーコー的な「言説(知=権力)」と表象が原理的に持つ暴力性をこういう具体的な形で提示したことが、この本のもっとも大きな貢献ではなかろうか。

『現代言語論』 立川健二・山田広昭 新曜社
 新曜社の「ワードマップ」シリーズの1冊。以前ポルノの先生改めエヴァの先生がいい本として紹介してたので、読んでみることにした。
 現代言語論を「構造としての言語・ソシュール」「無意識としての言語・フロイト」「行為・コミュニケーションとしての言語・ヴィトゲンシュタイン」という3つの流れとしてとらえ、それぞれについて解説していく。
 入門書なので、特別「ここがすごい」とか書くところはないが、客観的視点というよりは著者の主観的視点に基づいて解説しているので比較的読みやすかった。
 今までロラン・バルトのような構造主義の枠組みからしか言語論を見たことがなかったので、それ以外の視点、精神分析学的言語論のJ・クリステヴァ、後は言語行為論関係、それと言語と貨幣の問題を扱ったJ・J・グーあたりに興味を覚えた。
 そして、ある意味一番おもしろかったのは立川氏自身の主張「誘惑論」。言語論が自明としてきた<聴く主体>を<誘惑する主体>へと転回させようとする試みは、これを読む限りではおもしろそう。というか、何かちょっとエロスを感じさせます。後半部、やたら言語行為を恋愛のメタファーで書きたがるのもこの本の特徴かも。

『現代文学理論』 土田知則・神郡悦子・伊藤直哉 新曜社
 上の『現代言語論』と同じく「ワードマップ」シリーズ。しかも『現代言語論』の姉妹編という位置づけ。
 マルクス主義批評やフェミニズム批評などの文学理論はこっちにしか載ってないわけだが、結構内容的に重なるところも多く、特別書くべき内容も少ない。上の本と一緒に読めば理解が捗るだろうと思う。
 個人的に勉強になったと思ったのは、文学理論が置くさまざまな「読者」モデルをまとめたコラム、「ディスクール」という言葉が論者によってさまざまなニュアンスを持っていること(僕はフーコーの「言説」の意味しか知らなかったので)、あとはメタフィクションについて。あとは、ピエール・ブルデューのような文学現象論。ドイツの方ではオートポイエーシスまで文学とつながりつつあるようで、いよいよ文学理論も収拾が付かなくなりつつあるような感じがしてきた。

『エーコ 記号の時空』 篠原資明 講談社
 先月の『アルチュセール』と同じ「現代思想の冒険家たち」シリーズ。イタリアの記号学者ウンベルト・エーコの評伝的思想解説書。
 エーコはロラン・バルトと並んで記号論と言う学問を体系づけた人だが、両者のスタンスには大きな違いがあって、エーコの方は、<テクストの快楽>に走るバルトと違って、構造主義からは距離を置いてもっとストイックに記号というものを学問的に突き詰めていったらしい(エーコの著作を読んでないのでなんとも言えないけど)。
 で、なぜエーコに興味を持ったかというと、テレビやアヴァンギャルドというものに対しても記号論的アプローチを試みているということを、別の本で知ったから。実際、エーコは大学を出てからテレビ局に勤めていたこともあって、この本を読む限りでは確かにテレビ番組を知悉しているようだ。さらに、アヴァンギャルド芸術/大衆文化の対立とポストモダニズムという非常に興味をそそられることも論じていることを新たに知って、これはエーコの著作も読まないといけないなあ、と思わされた。
 ちなみに、著書『物語における読者』執筆のきっかけとなった、アルフォンス・アレの短編「とてもパリ的なドラマ」(アンドレ・ブルトン『黒いユーモア選集』収録)は非常におもしろい作品。この本の中にもほぼ全編収録されているので、エーコに興味がない人もこれだけは読んで欲しい。たった数ページの作品なのに、読後絶対に「あれっ?」って思うので。

『戦争論争戦』 小林よしのり・田原総一朗 幻冬舎文庫
 火事場泥棒シリーズ第1弾ということで、電車の中でも軽く読めそうな本を一冊。これは『戦争論』の第1作目が出たあとに、小林よしのりと田原総一朗が歴史観を巡ってガチンコ対決した記録。二人とも単純に右/左をいう分け方ができない思想的立場を取っているのに加え、あの「我」の強さだから、本当に「論争戦」。どっちもあまり相手の意見を受け入れようとしない(というより根本的に思想的立場が相容れない)から、相手の意見をいなすようなところがなくて、12ラウンドずっと殴り合いを続けたような、そんな論争になっていた。喧嘩みたいになってるところもちらほら。
 二人の違いというのは、戦争を体験したかどうかの違いがやはり根本にあるが、当時小学生で、実際戦地に赴いてないという田原氏の立場もまた微妙なところ。田原氏はいろいろ問題はあるものの、一貫して戦後を「よかった」として捉えてるのに対し、小林よしのりは日本人の歴史を顧みない戦後民主主義は根本的に問題がある、少なくとも今日に至っては確実に問題が発生していると考えている。
 議論の流れに乗って、あっという間に読めてしまうので、詳しくは書かないが、個人的には前半は田原氏優勢(小林よしのりの歴史観がどうも抽象的)、後半は小林よしのり優勢(田原氏の「国連軍」構想はいくらなんでも無茶だと思う)って感じだろうか。

『残像に口紅を』 筒井康隆 新潮文庫
 かつてから読んでみたかった作品。この世からひとつずつ文字が抹殺され、それとともにそれが指し示す事物も無くなってゆく実験文学。文字が無くなるとともに、それが指示するものも無くなってゆくわけだから、すなわち、家族や友達などのキャラクター、または、本のごとき事物も文字が無くなった瞬間、ともに霧散する。そんなリミットのなかでも書き続けられる作者のボキャブラリーの豊かさには感服するしかな

 い。」と、ここまでひとつも母音(あ・い・う・え・お)を使わずに書いてみたが、やはりこれはつらい(特に母音を封じられるとつらい)。要するにこの作品の中で筒井康隆がやろうとしたのは、こういうある種の言語ゲーム。虚構だからこそこういうことができるという前提が何より最初にあって、そこから小説を始めていくというのは、『朝のガスパール』や『唯野教授』と同じアプローチ。
 非常におもしろかったが、あえて注文をつけるとすれば、文字が無くなった後の世界の描かれ方が不徹底ではないかと思う。人名にかかわる文字がひとつなくなった瞬間、その人が消滅するルールなのかと思いきや、別の場面では文字がなくなっても、「消えた字の部分がにじんで読めない」とかその対応物がいまだ存在する状態に置かれたり。言語学の言葉で言えばシニフィアン−シニフィエ−レフェランのシニフィエとレフェランがごっちゃになってるような、そんな印象を受ける。こういう言葉=概念の結びつきに関して言えば、ジョージ・オーウェルの『1984年』にでてきた「新語法(New speak)」の方が徹底してると思う。
 それと、文字がなくなっても、主人公がわざわざそれを読み手に説明するような態度は無かったほうがかっこよかったかもしれない。つまり、ひとつずつ文字は消えていくんだけど、それを読み手に意識させないような展開のほうが、いかにもアクロバティックでよかったかな。「あれがなくなった、これがなくなった」といちいち書き連ねるのはちょっとくどい嫌いもある。
 ちょうどこの前、「言葉をブロックのようにして世界を作る」という話を書いたけど、この作品が目指すところは、まさしく僕の世界認識と近いところであって、逆に言えば、この世の中にはこれだけ文字が豊かにあるんだから、世界というのはほぼ無限に作っていくことができるということでもあるのです。
 あ、あと物語冒頭の喫茶店。ここ、何度か行ったことあります。今はもうなくなりましたが。

――まんが――

『ラブロマ』(1) とよ田みのる 講談社
 無責任ジャケ買いシリーズ。実はこれと一緒にもう1冊ジャケ買いしたのですが、そっちのほうは三球三振。ジャケ買いでここまでからぶったのは初めてだったので、ショックのあまり炊飯ジャーに封印しそうになりました。
 で、こっちの作品『ラブロマ』の方はなかなかおもしろかったのでここに紹介するしだいです。このタイトルとオビに書いてあった「CLAMP推薦、かわいい。」と言う文句のために、逆にこれを買ったものかどうか2日間悩んだのですが、表紙の右の男の子の顔のおもしろさ(どう見ても魂が入ってない)には勝てず、結局買ってしまいました。
 タイトルから予想できるとおり、やはりジャンルはラブコメ。二人がくっつくんだかくっつかないんだか、付き合った後もいろんな誤解が誤解を招いて、読んでるこっちがやきもきさせられるようなのが、自分のイメージとしての「ラブコメ」なんですが、この作品はそういうのとはまったく無縁。
 というのも、表紙でにらんだとおり、右の男の子・星野くんがちょっと変な奴で、自分の思ったことを包み隠さず言ってのけるわけです。好きなときは好きだとはっきり言うし、彼女・根岸さんが作ってきてくれたお弁当を「見た目どおりまずいです」と断言します。ある意味、この潔さはラブコメとしては新鮮かもしれません。
 ところで、星野君がノラ猫を呼ぶときにネコに向かって人差し指を突き出すシーンがあるのですが、これを見た段階で「あー、作者はネコ好きだ」と言うことがはっきり分かりました。猫を呼ぶときって、手招きするんじゃなくて、指を突き出してやると、「何だろう?」と気になって近寄ってくる習性があるのです。このシーンだけで、ぼくの中ではこの漫画の評価が一段階上がりました。

『鋼の錬金術師』(1)〜(5) 荒川弘 スクウェア・エニックス
 ・・・というコメントすらこの時期、陳腐でありますが、なんだかんだ言った挙句買ってしまいました(すでにトップページに6巻の予定を書いておいたので、目ざとい人は気づいたかもしれませんが)。
 このマンガを読んだ第一の感想は、とにもかくにも「・・・くやしい。」の一言に尽きます。なぜか。画風OK、ジャケOK、なおかつ自分のホームグラウンド「少年ガンガン」連載でありながら、今日の今日までこれを読んでいなかったことが悔しくてならないのです。しかも今月からのアニメ化と重なって、各書店で売れまくっているこの時期に買わねばならなかったことが、この悔しさをさらに強めています。たとえて言うなら、レベル30の賢者が、うっかり習得し忘れてたメラをレベル6の魔法使いに教えてもらうような悔しさです。
 それほどの悔しさを感じさせるくらい、このマンガ、むちゃくちゃおもしろいです。歴代のガンガン漫画の中でも、絵・ストーリーともにトップクラスだと思います。そりゃアニメ化もむべなるかなと、まったく納得。
 ストーリーなど、詳しくは公式サイトでどうぞ。あと、どうでもいいですが、主人公・エドワードが牛乳嫌いなのには共感がもてます。誰かと一緒で、だから背が伸びない。

『×××HOLIC』(2) CLAMP 講談社
 前回に引き続いて『×××HOLIC』は2巻もジャケ的に最高ですな。何か内容がダメみたいな書き方ですが、そんなことはなく、ストーリーも結構おもしろいです(ボケとつっこみはへたくそだけど)。同時発売の『ツバサ』の方も買いましたが、やはり少年誌向けだけあって、そこまで精神年齢は低くないというか、ストーリーは悪くないけど、個人的には『×××HOLIC』ほど惹かれませんでした。

『鋼の錬金術師』(6) 荒川弘 スクウェア・エニックス
 今日発売だったんで、早速買いに行ってきました。前にも書いたけど、1巻だけ買ってみたあと、急いで残りの巻を買ってしまったくらいおもしろいマンガです(Aは確実)。
 人によっておもしろいと見る場所は違うでしょうが、僕が「これは来た」と思ったのは、3話に1話くらいの割合で現れる精神的ショック。このマンガ、「ガンガン」で連載するにはあまりにテーマが重すぎます。
 この6巻で言えば、この物語の大きなテーマである、人体錬成のシーン。主人公のエルリック兄弟が病気で失った母親を取り戻したいという純粋な一心で、錬金術の禁忌である「人体錬成」を試みるわけですが、その結果があまりにも残酷なのです。
 人体の構成成分(平たく言えばレシピ)はもう分かっているのに、人間はなぜ人工的に人間を作りだすことができないのか。その裏には神とか真理とか魂とかいうテーマが横たわっています。もちろん、こんな重苦しい話ばかりが続くわけではないですが、この物語のそもそもの始まりが、この「人体錬成」にある以上、重要なテーマになってくることは間違いないと思います。
 本を買ったあと近くのマクドナルドで読んでたけど、考えさせられるところが多かったので、多分マンガを読んでるような顔をしてなかったんじゃなかろうか。

『パン☆テラ』(1) ゴツボ×リュウジ 小学館
 ゴツボ×リュウジの新刊『パン☆テラ』を買ってきました。もし、この表紙のかっこよさ、そして「ROCKは死んだと何度も耳にした。そんな世界の片隅で、ROCKだけを武器に伝説を創ろうとする男がいた」っていう冒頭の言葉に、ロック魂(そんなのあるかどうか知らないが)に火がついて買ってしまったなら、それは「アウト」。
 というか、そもそもこれはロックなまんがじゃない。『ササメケ』がサッカーまんがじゃなくて、あくまでもサッカー「風味」なのと同じで、これもロック「風味」なまんが(「風味」すら怪しい)。だから、熱いロックの息吹を感じようとか、そんな情熱を抱いて読んだ人は「ふざけんな!」って叩きつけたくなると思うのです。(まあ、ゴツボ×リュウジのまんがにそういうのを期待してる時点でどうかと思いますが)。
 とにかくストーリーが『ササメケ』以上に行き当たりばったり。第7話まで来てるのに、まだバンド結成も疑わしい状態。しかも後半になればなるほど、話がロックから離れていきます。もう「第6話」に至っては、作者の頭が壊れたんじゃないかと心配になるくらいの展開を見せます。
 さっきの「ふざけんな!」にも関わりますが、要するにこのまんが、「ふざけてる」のです。ただそのふざけをどこまで許せるのか、それがこのマンガが好きになれるかどうかの分岐点だと思います。僕はどこまでふざけても受け入れられるし、むしろこのスタンスをもっと突き詰めてほしいので、『ササメケ』同様、『パン☆テラ』も好きになりました。問題の第6話もずーっと笑ってました(行き当たりばったりって言うのは、いわば「先が読めない」のと同じだから、きっと僕はそういうところが好きなんだろうなあ)。
 『ササメケ』のセンスに着いていける人なら、問題なく楽しめるでしょう。そういう人にはおすすめ。

★今月の一冊★
★活字
 今月は『残像に口紅を』。書評内で書いたように、方法論の徹底性には疑問が残るけど、小説のひとつの可能性を見せてくれる作品ってことで。あとは『現代文学理論』と『現代言語論』。まったくの初心者にとっては、言ってることがなかなか難しいけど、こういう理論が頭の片隅にあると『残像に―』のような作品の見方にも新しい視点が加わって、別のおもしろさが見出せます。

★まんが
 ダントツで『鋼の錬金術師』。今の今まで読んでなかったことが悔やまれて仕方ない。あとは、『パン☆テラ』。このいきあたりばったり感は『ササメケ』だけじゃなくて、ゴツボ×リュウジのスタイルなのだなあ、と思いました。

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